スキップしてメイン コンテンツに移動

5月15日、沖縄の復帰記念日に寄せて


48年前の5月15日。___ひだか 2020/05/17


5月15日は沖縄の復帰記念日です。

1972年5月15日、ボクは那覇市首里真和志という所にある借家に住んで居りました。

この日は日曜日で、明け方からどしゃ降りの大雨が降って居りました。教会へ行く時間になっても雨は止む気配がなく首里バスで国際通りの牧志で下車し、安里三叉路の突き当たりの丘の上にその当時ありました真和志教会へ行きました。

沖縄戦後に首里市が那覇市と合併するまでは、真和志と呼ばれた地名が守礼門辺りから国際通りの安里三叉路辺りまでに広がる地域を含んでいました。

沖縄戦後に安里三叉路の南側の丘の上に米軍チャプレンの好意で払い下げの蒲鉾形の兵舎を会堂とする教会が創立された時、地名の真和志をとって真和志教会と名付けられたようです。

その戦後に首里市が那覇市と合併した際、真和志という地名は首里の一部に残るだけとなったようです。

その 5月15日の豪雨はお昼過ぎ頃に止みました。礼拝を終え雨が止むまでは教会で過ごしていましたが、2時半頃に国際通りへ降りて行くと、安里三叉路と牧志バス停の間の国際通りは安里川が氾濫して茶色い濁流が通りを横断しておりました。

どうやって首里へ帰ろうかを考えていたら履き物を手に持った人たちがズボンやスカートの裾を捲し上げて歩いて濁流を渡って行く姿を見たのです。そこでボクも同じように裸足で濁流を渡り、牧志郵便局前の入口で濡れた足を拭き、靴を履き直しました。

その頃はまだ車が右側通行でしたので、国際通りを経て首里や中北部へ向かうバスの牧志バス停は牧志郵便局の前にありました(現在は安里川を掘り下げモノレールの駅があります)

守礼門の西側に隣接します市立城西小の南側の借家に帰り着いたら、わが家は池の中に孤立しておりました。その池の中に建つ形のわが家には蛇も巣穴から這い出して避難中だったと知らないまま帰宅したボクが寝室兼居間に行き、天井に下がる電灯のスイッチを捻りパッと室内が明るくなりましたら、天井から見慣れない太い藁縄のような物が約50cmほどぶら下がっておりました。

「エッ何だ!?」と思って藁縄の先を見て驚きました。その藁縄の方でも驚いていたらしい。

藁縄の先に顔を向けたボクと藁縄の先っちょとの距離は30cmも離れていませんでした。
「ギョッ!?」として見たら藁縄だと思いましたモノの先端は生きている蛇の頭だと瞬間的にわかりました。胴の直径は3cmほどですから大人のハブです。体長はわかりませんが2mぐらいはあるだろうと想像できました。

その蛇はボクがその家に引っ越す前から近くの巣穴に住んでいたのだろうと思います。その蛇がネズミを捕獲する狩場(生活圏)にボクが侵入して住み始めたわけです。

その時、毒液を持つハブが何しに天井から50cmほどもぶら下がって居りましたかまでは蛇から何も聞きませんでしたのでわかりません。

樹木の枝から人に跳びかかり首や腕を噛むという話は聞いたことがありますし草むらを通り過ぎようとする人にハブが跳びかかって足等に噛みつくという話も聞きました。

しかし天井からぶら下がっていたその蛇は攻撃態勢を取っておらず、上体の一部でぶら下がっていましたたせいで安全を喫したのだと思いますが、「ザリッ!ザリッ!」と不気味な音を上げて天井裏へと後退りしていきました。

(沖縄県公式 HP から)

完全にハブの姿が見えなくなるまで、ボクは電灯のスイッチに右手を掛けた姿勢のままでその場で息をするにも注意してハブから眼を離さずに凍り付いて居りました。

そのことがありましてから、その気になればハブは腹の鱗を使いバックすることもできるんだということをボクは初めて知ったのです。

それがあの 1972年5月15日の “復帰” の日の夕刻に首里の借家でボクが出くわしました危機一発の忘れられない出来事です。

もし 48年前のあの時、ボクがハブに噛まれていたなら復帰の日の咬傷事件という新聞種になり今に語り継がれているやもしれません。

聞くところによると「青空の下、日の丸を振って復帰を祝う沖縄県民」と説明します写真付きで関東地方の新聞が翌日の朝刊で報じたとか。

それが事実なら、佐藤栄作政権=自民党政府に忖度した合成写真を予め用意し平然としてやらせ報道をやらかした!と思える。それが合成写真ではないのならば、全く異なるシチュエーションの写真を便宜的に使い回してやらせ報道をしたのだろう。でっち上げの報道では常套手段だから。
(沖縄県公式 HP から)

もっとも、佐藤首相が所信表明演説で両3年、足かけ3年で沖縄返還が実現する…と 1969年の国会で表明するまでは、高校生が使う文部省検定済の地図帳を筆頭にしまして公立図書館とか全国各地の新刊書店にいたるまでが沖縄関係の書物を倉庫の奥へ隠匿し、国民の目には一切触れさせない・考えさせない様に、社会全体で沖縄の存在を隠し通していたわけですから、やらせ程度の稚拙な報道をした新聞があるとしましても何ら驚くに値しないと言える。

こうした忖度販売の方式を首都圏の古書店協会が時の権力におもねることをせず、数多くの沖縄関係文書を店頭販売してくれましたお陰でボクは僅か2年の短期間に独学で当時の沖縄の政治的文化的な状況を頭に刻み込むことができたのです。

そのお陰で、未知の土地沖縄へ渡航しましてからも、生々しい状況に直面しても物おじをせず、厳しい言葉を向けられましても動揺することなく、内心で逃げて誤魔化しもせず常に真摯な態度を維持しつつ正面から相手を受け止めて、その言葉の本質を己に深化させようとつとめます発想のうちに留まることができたのだと思う。

その復帰の日は 27才と 25日目、東京・那覇直航船で入域して16ヶ月半目のことでした。
-----------------------------------------------------------------------
(メーリング リストに投稿された貴重なエピソードを blog に記録しておきます。___ h.yuji)

コメント