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奪われた幼い命 ―宮森小 米軍ジェット機墜落事故― 2020/07/08 ひだか

琉球新聞は 2018年6月29日、「1959年6月30日、うるま市(旧石川市)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落した。」記事を報じている。

かつて沖縄に移住し、基地の島の実情をつぶさに見てきたひだか氏はこの時期になるといつもこの事故のことを思い出す。この話を聞いた I氏が「確か、この事故で亡くなった子供が、最後に「papa、ママ、さようなら」といって息をひきとっていったそうです。」と返したことに触れ、次のように書いている。
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「パパ、ママ、バイバイ」と言った…話は、1977年9月27日午後1時すぎに空母
ミッドウェーの艦載機(米海兵隊所属の戦術偵察機 RF-4B ファントム機)が厚木基地を離陸した直後に火災を起こし、操縦士2人が脱出し火だるまとなった機体が横浜市緑区荏田町(現青葉区荏田町)の住宅地に墜落し、大火傷を負いました。

3才と1才の男の子が翌日未明に息を引き取る時に「パパママ、バイバイ」と口にしたと伝えられます。操縦士2人は墜落後10分ほどで駆けつけた海自の救難ヘリが救出して米軍に戻したが、付近20戸が火災を起こし全半壊し母子3人の他市民3人が負傷。

機体は墜落から約1時間後の14時20分ごろ消火活動を手伝う市民や消防隊を締め出して米軍が回収。翌10月に米本国へ送られたと知った飛鳥田一雄市長が米大統領カーター氏に向け抗議声明を表明して電報を打ち、事故機のエンジンの返還に約1ヶ月を要したが、日本側が原因究明することはできず日米共同委員会の発表を待つほかなかったという。

この日米共同委員会は日本政府や日本国憲法の上位にあって、米軍優先の決定をする機関です。

子どもたちと一緒に瀕死の大火傷を負われた母親も皮膚の移植手術で親族だけでは足りず、一般公募をして皮膚移植をされ、子どもたちとの再会を祈りリハビリに励まれたそうですが、約1年半後に2人の子どもたちの死を知ると精神的衝撃を受けられ入退院を繰り返され心因性の呼吸困難で亡くなられたという。



遺族は母子のブロンズ像を横浜市に寄贈されたが、市は公園法の解釈をタテにして「愛の母子像」の由来を説明する碑文の設置を拒み1985年から、港が見える丘公園のフランス山の一角に由来不明の母子像として放置されました。

ブロンズ像設置から約20年後に地元紙の記者が取材して 2005年02月に報道したことから、当時中田宏市長が定例会見で碑文の設置方針を表明し翌年1月に碑文を台座に嵌め込みました。

なおバラの園芸品種「カズエ」は、この母親の名に由来して名づけられたという。

「パパママ、バイバイ」という言葉は、さまざまな TV番組、書物などでも取り上げられたようです。日米安保は岸信介が尽力して締約したものです。
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(メーリング リストに投稿された貴重なエピソードを blog に記録しておきます。___ h.yuji)

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